2006年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」   入江幸男

第5回講義 (May 16. 2006

 

■第二回ミニレポートの課題■

「心的原因と動機一般の違いは何か?」

 

<学生の答え>

・動機一般の場合、恒常的で、常に存在するのその人の性格に関わる心の性質、持続性を持つ、心的原因は、一時的に生じる心の動き。(山下さん、松下さん、横山さん、鈴木君、森田さん)

・心的原因は、外部からの働き、動機一般は完全に内からの働き(大場)

・二つは、時間的長さで区別できる。(三宅くん)

・心的原因は、出来事によるが、動機一般は、出来事によらずに湧き出た気持ち(斉藤さん)

・動機一般の場合、ある程度「自覚」があるが、心的原因の場合「自覚がない」(桐木さん)

・動機一般は、行為との間に明確な因果関係を有するが、心的原因と行為の間の因果関係は不明瞭である、あるいは結びつきが弱い。(菅野さん)

・心的原因の場合には、知的思考が入っていないが、動機一般の場合には、知的思考が入っている。(劉さん)

・動機一般は、それ自体が目的であるが、心的原因は、それ自体は目的とならない(有澤君)

・動機一般が事物・出来事への解釈的な機制であるとすれば、心的原因は、より原初的な反応(例:心理学でいう刺激=反応モデル)ではないでしょうか?(柿田くん)

・茂みから犬が出てきて驚くのと、恋人が出てきて驚くのとはちがうのではないか(矢田さん)

・動機と心的原因を区別するものは、「・・・したい」という欲求の有無にあると思います。(野々村くん)

心的原因は、行為や動作に先行する。動機一般は、心の中にある傾向である。(吉村さん)

・動機一般の場合には、心的原因とちがって、行動を「選択」する余地がある。(井野くん)

・能動的感情にもとづくのが『動機一般』であり、受動的感情その他にもとづくのが心的原因(葦埜くん)

 

(入江の答え)アンスコムは、心的原因が過去の出来事を原因としているので、過去視向型動機との区別さえ述べれば、その点で、他の動機との区別は明らかだと考えた可能性がある。

心的原因となるのは、外的出来事の知覚であるが、その知覚は行為に先行する出来事である。これに対して、動機一般は、一時的な出来事ではなくて、行為を解釈する図式、あるいは行為を理解する図式であるので、一時的な出来事ではない。あるいは、もし動機が行為とは独立の欲求や傾向性であるとするとても、これは一時的な出来事ではなくて継続的なものだといえる。

 

■第三回ミニレポートの課題■

「我々の行為」を振る舞いの分類に準拠して、分類して、その例を挙げてください。もし該当する行為がなければ、×をしるしてください」

 

――――――――――――――――――――――― 講義に戻る。

 

先週の講義について、2つの補足をしてから、次の§に進みたい。

 

12、「「これは白い」という私の発言は、私の感覚に基づいている」は哲学的文法なのか?

私が「これは白い」といったときに、もし「なぜ君はそういえるのか」と問われたならば、私は「「これは白い」という私の発言は、私の感覚に基づいている」と答えるだろう。この発言自体は、もはや内官による観察(反省)に基づくのではない(なぜなら、そうすると、無限反復に陥り、「これは白い」という知の成立を説明できなくなるから)、と先週のべた。

この話をODの重田君にオフィスアワーで話したところ、次のようなコメントをもらった。

OD重田君からのコメント■

「「これは白い」という私の発言は、私の感覚に基づいている」というのは間違うことのありえない発言であり、同様に間違うことのありえない発言「歯が痛い」と同じく、知識ではないのではないか。それは文法的な命題なのではないか。

 

 確かに、ウィトゲンシュタインならば、そのように言うかもしれない。例えばつぎのような発言がある。

 他人が見ているものを私は知ることが出来ず、私が見ているものを他人は知ることが出来ない、ということを述べた後で、彼は次のように言う。

「ここでの「見る」という語の使い方にはまぎれもない非対称性があると思える(また、個人的経験に関わる語はすべて)。このことを言うのに人は、「私が自分が何かを見ているのを知るのはただそれを見ることによってであり、自分の言うことを聞いたり自分の[『見る』こと]以外の振る舞いを観察したりする必要はない。それに対して、彼が見ていること、彼が見ているものを知るには、ただ彼の振る舞いを観察するしかない、つまり間接的にしか知りえない」、という言い方をしがちである。

(a)この言い方には、誤りがある。すなわち、「私が見ているものを知るのは、

私がそれを見ることによる」、と言うが、そのことを知るとは一体何を意味しているのか。

(b)私は見ている、と言うことに対する私の理由が、私の振る舞いの観察[によって与えられるの]ではない、というのは正しい。しかしこれ[事実についての情報ではなく]文法的な命題である。」(ウィトゲンシュタイン「「個人的経験」および「感覚与件」について」大森荘蔵訳、『ウィトゲンシュタイン全集』第六巻、大修館書店、p.312)(下線は引用者) 

 

ここにいう「これ」とは、「私は見ている」という命題か、「私は見ている、と言うことに対する私の理由が、私の振る舞いの観察[によって与えられるの]ではない」という命題のいずれかであろう。しかし、「私は見ている」は、文法的な命題」ではないだろうから、「これ」は後者を指すのだと思われる。

「私は見ている」は、ここでの文脈では、行為一般の例ではなく、意図的行為一般の例でもなく、「個人的経験」の例として挙げられている。しかし、このことは、意図的行為一般にも妥当するのではないだろうか。例えば「何をしているのか」と問われて、「私はチェスをしています」と答えるとき、「私がチェスをしている、と言うことに対する私の理由は、私の振る舞いの観察[によって与えられるの]ではない」ということも、文法的な命題である、ウィトゲンシュタインならば言いそうである。

 

 ところで、文法的な命題とは、何だろうか。例えば、「黄色いものは、白くない」というのは、経験的な命題ではなくて、語の意味にもとづく命題である。これと同じく、「私の痛みを、他人は感じることができない」も語の意味にもとづく命題である。(おそらく、ウィトゲンシュタインは、このような語の意味に基づく文法的な命題だというのであろう。もっとも、語の意味は、このような文法的な命題によって成立するのだといえるのかもしれない。ここでは、ウィトゲンシュタイン解釈に立ち入らないので、とりあえず以下では上のように考えて議論を進める。)

では、これらと同じく、「『これは白い』という発言を、私は実際に見ながら語っている」という命題も、語の意味に基づく命題なのだろうか。もし、語の意味にもとづく命題ならば、常に成り立つはずである。しかし、これは常に成り立つわけではない。もし、私が目隠しをしていて、他人が、私の手を持って「これは白い」と教えてくれるとき、私がそれにもとづいて「これは白い」というとすれば、この発言は私の感覚には基づいていない。では、どういうときに、この発言は、感覚に基づくのだろうか。それは、私が実際に見ながら語っているときである。つまり、「『これは白い』という発言を、私は他人の教えにもとづいて語っている」というのが経験的な命題であるならば、「『これは白い』という発言を、私は実際に見ながら語っている」というのもまた経験的な命題であろう。では、この経験的な命題の発言は何に基づくのだろうか。私の内官に基づくのだろうか。先週述べたように、そうではないだろう。

 ところで、「黄色いものは、白くない」というのは、経験的な命題ではなくて、語の意味に基づく命題である、ということは確かなことだろうか。実は、我々は、これが成り立たない場合を想定することができる。もし、私があるカードのゲームをしているとしよう。そのゲームは、カードの裏と表の色の違うカードが複数あって、一方の色から、反対側の色を当てるゲームである。そして、表が黄色のカードの裏は、赤だとしよう。そのゲームでは、「黄色いものは、白くない。黄色いものは、赤い」という発言が正しい。このとき、「黄色いものは白くない」を私は、観察に基づいて知ったのである。これは語の意味に基づく命題ではない。つまり、ある文が、語の意味に基づく命題として解釈されるとしても、その文が常に語の意味にもとづく命題として解釈されるとは限らない。つまり、語の意味に基づくかどうかは、解釈ないし文脈に依存しているのである。「文法的な命題」というのは、文なのではなくて、文についてのある種の解釈(命題)として考えられるべきだろう。

上のカードゲームの場合に、「『黄色いものは白くない』を、私は観察に基づいて知っている」という知は、観察によらない知である。

では、「黄色いものは白くない」が文法的命題として解釈された場合に、「『黄色いものは白くない』を、私は語の意味にもとづいて知っている」という知もまた、観察によらない知であろうか。

 「『黄色いものは白くない』が文法的命題である」は、文法的な命題ではないだろう。それは、ある言語についての観察に基づく経験的な命題であるだろう。

 

注、ダントーの「基礎的行為」については、ウリクト『説明と理解』丸山高司、木岡伸夫訳、産業図書、p.87を参照。

 

§3 「我々」の実践的知識について

 

1、「我々の振る舞い」の分類

<我々の振舞い(動作、動き)>を、アンスコムによる個人の振舞の分類に即して、分類してみよう。

 1<知らない> 

(マージャンしているときに、大きな音を立てて隣人に迷惑をかける)

 2<(ある記述の下において)知っている>

    21<観察に基づいてはじめて知る> ???

    22<観察に基づかないで知る>

       221<その動作が何故生じるか観察に基づいて知る>???

       222<その動作が何故生じるか観察に基づかないで知る>

(心的因果性)

         2221<心的原因> ???

         2222<動機>

          a<過去指向型の動機>復讐、感謝、後悔、哀れみ

               (テロ、謝恩会、反省会、葬式、などをする。)

          b<動機一般>虚栄心、愛情、好奇心など

              (懇親会をする。)

          c<未来視向型の動機(意志)>

目的を述べる言明に見られるように未来の出来事へ言及する意図

               (法案を撤回させるために、デモをする。)

 

■我々の実践的知識、例えば、「我々はサッカーをしている」

(個人がサッカーをするのは、未来視向型の動機なのだろうか。少し違うような気がする。)

サッカーをする場合を考えてみよう。Aチームの選手がパスを出そうとする。そのパスを受けようとして二人の選手が走る。それを阻止しようとしてBチームの選手が走る。そのパスが通った後のことを考えて、Aチームの選手が走る、Bチームの選手が走る。そのパス出しを阻止しようとして、Bチームの選手が走る。このとき、10人の選手が動いている。それ以外の12人もまたその後を予測して、動いているだろう。

このように選手たちが動いているとき、「君は、何をしているのか」と問われたならば、「私はサッカーをしている」と観察によらずに即座に答えるだろう。また「君たちは何をしているのか」と問われたならば、同様に、「我々はサッカーをしている」と観察によらずに即座に答えるだろう。

 

■集団感情?

心的原因によって生じる個人の感情があるが、それと同じく心的原因によって生じる集団の感情があるのではないか。

 Cf. “We may speak of collective intentionality also in the case of emotions like joy, fear, and schame.” (Tuomela “Philosophy of Social Practices” Cambridge U. P. 2002, p.17)

 

私と妻が山小屋にいたときに、突然窓に顔がぬっと現れたなら、我々は恐怖するだろう。この恐怖は、二人でいたために一人でいたときのそれよりは小さいものになったかもしれないが、しかしここでの私と妻の恐怖は共同の恐怖ではない。

私が、仲間のチームでサッカーをしているときに、最初の数分で相手のチームにいきなり二点入れられたとしよう。我々はそのとき、一体何点いられてしまうのだろうと不安を感じるだろう。この不安は、一人の不安ではなくて、集団の不安だといえるのではないだろうか。

私と友人が、二人で一緒に宝くじを買ったとしよう。そしてそれが偶然にもあたったときには、我々はともに喜びを分かち合うだろう。

 

our second order desire?

我々は、相手チームのストライカーをみて、彼をわがチームに引き抜きたいと思った。しかし、それはわがチームのストライカーをサブにすることである。我々は、彼ともサッカーを楽しみたいと思った。我々は、どちらをとるか相談した結果、引き抜き交渉することにした。つまり、彼をわがチームに引き抜きたいという欲求を選択した。

*我々は、開始早々相手チームの強さに怖気づいてしまった。そこで思わずみんなで「ドンマイ、ドンマイ」と声を掛け合った。我々は、戦い続ける意欲を持ちたいとおもった(we wanted to want to keep our fighting sprit.)。

もし、このように二階の欲求が、「我々の欲求」にもあるのならば、フランクフルトの定義によれば、「我々」もまた自由な意志のもち主であり、「人格」であることになる。

 

2、「我々」の行為の入れ子型構造

我々の行為についても、様々な記述が可能であり、それらの間には、規約による関係と、因果関係の二種類がある。

(1)規約による依存関係

   a、我々は、一緒にサッカーをしている。

   b、我々は、ワールドカップの予選をしている。

   c、我々は、スポーツをしている。

   d、我々は、国際親善をしている。

   e、我々は、国家のために戦っている。

ある行為について、上のすべての記述が正しいといことがありうる。これらは、規約による関係である。例えば、もしbが真ならば、そのときに、aやcもまた我々は知っているだろう。しかし、dやeを知っているとはかぎらない。

もしdやeを別のひとから指摘されたときに、彼は、そのことを、観察によって初めて知るのだろうか? 自分たちがサッカーすることが国際親善になっていることを、彼は観客席を見て観察によって知るのだろうか。

さて、その人が、

   f、我々は、国際親善や国家のためでなく、純粋にサッカーしている。

と答えるとすると、このときには、彼によるその行為の理解と、他の人による行為の理解が異なっているということになる。

これは、鋸で板を挽いていたひとが、「大きな音で隣に迷惑を掛けている」といわれて、「このくらいの音は、そんなに迷惑じゃない」と答えたときに、行為についての理解が異なるのと同様である。

 

(2)因果関係

我々の行為についての様々な記述は、因果関係をもつことがある。

a 我々は堤防を作っている。

b 我々は洪水を防ごうとしている。

c 我々は人々の安全を守ろうとしている。

あるいは、

a 我々はポンプを押している。

b 我々はポンプで水をくみ上げている。

c 我々はその家の住人を毒殺しようとしている。

d 我々は革命をおこそうとしている。

これらは、因果関係をもっている。

 

(3)分業関係

    a 私はポンプを押している。

    b 彼は水に毒を入れている。

    c 我々はその家の住人を毒殺しようとしている。

ここでは、aとc、bとcは因果関係にある。aとbは分業関係である。

このとき、cだけでなく、

    d 我々は水に毒を入れポンプを押して、その家の住人を毒殺しようとしている。

 では、規約による分業関係というのは、ありうるだろうか?

 

3、「我々」の行為の基礎的行為

ダントーが、個人の行為について述べた基礎的行為に相当するものが、「我々」の行為にも存在するのだろうか。

(1)我々がポンプを押すというような場合には、二人が同じような動作をするので、ポンプの柄を上下させる、ポンプの柄を手で押さえつける、腕を伸ばす、というように行為が分析され、腕を伸ばすことが、基礎的行為となる。しかし、これは「我々の行為」というよりも個人の行為である。

 

(2)上の例でわかるように、基礎的行為は、他の基礎的行為と組み合わされて、複合的な行為となり、ポンプの柄を上下させるという行為になる。

 

(3)我々の行為を分割してゆくと、最終的には個人の行為になる場合。この場合には、個人の行為が集まって一つの集合的な行為としての意味を持ち始めるとき、それが「我々の基礎的行為」だといえるだろう。

例えば、銀行強盗するときに、aが見張りをして、bとcが銀行の中に入って、bが銃を突きつけているうちに、cがお金を袋に入れる、というように分業するとしよう。このとき、「見張り」「銃を突きつけること」「お金を袋に入れること」は、個人の行為である。一人ひとりは、「私は見張りをしている」「私は銃を突きつけている」「私はお金を袋に入れている」ということを観察によらずに知ることができる。しかし、例えばaもbもcも「我々は見張りをしている」とは言えない。またbとcは、「aは見張りをしている」ということを観察によらずに知ることはできない。しかし、彼らは、「我々は銀行強盗をしている」ということを観察によらずに知っている。

 

(4)我々の行為を分割してゆくと、より小さな集団の「我々の行為」になる場合。この場合には、小さな集団の行為が集まって、一つの集合的な行為としての意味を持ち始めるとき、それが「我々の基礎的行為」だといえるだろう。

例えば、22人が「我々はサッカーをしている」ということはできる。そして、一方のチームの11人は「我々は攻撃している」とか「我々は今守っている」ということはできる。攻撃することと守ることは、分業の一種だろう。この場合には、「我々の基礎的行為」を分解すると、より小さな集団の「我々の行為」になる。

 

(5)我々の行為を分割しつづけるならば、常に、いずれは個人の行為にたどり着くのだろうか。(これは来週のお楽しみ)、